そんな思いから今年のBest5に食い込む傑作を一つ。また今年のBestについてはブログ書きます。
シリアスマン
あらすじ:物理学教授のラリーは、ある日を境に災難が続く。長年連れ添った妻ジュディスが離婚を望んだり、覚えのない商品代金の督促に追われたり。そこでユダヤ教の賢者に相談するも「歯痛の如く、時が経てば痛まない」と助言を受けるが、彼は明確な神の答えを求め続け……。
アメリカでは2009年の公開で、ずいぶん遅れて今年の二月にやっとこさ上映。作品は、ハートロッカーが選ばれた2009年のアカデミー賞の作品賞にノミネートされていた話題作でもあるにも関わらず不遇な扱い。シニカルなユダヤ人の慣習や宗教ネタが豊富なため、日本人に馴染みがないことがなによりの要因だと思うけど、いやぁ公開されただけ有難い有難い。
コーエン兄弟監督作品ということで、彼らのブラックさが苦手な人はこの作品も同様に苦手だと思う。アカデミー賞作品賞を取った「ノーカントリー」でダメだった人はこの作品も向かないかもしれません。まだ柔らかいブラックさだとは思うけど、根本的に肌に合わない場合もあるかと思うブラックさです。
かくいう自分は、コーエン兄弟のブラックさが、とても肌に合うので、好きな監督です。なので「シリアスマン」それはそれはコーエン兄弟らしさを堪能できました。
「シリアスマン」は、主人公のラリーにとにかく不幸が重なって救いもなくさらにさらに重なっていく…映画です。ただただ悲壮感に溢れる物語であるにもかかわらず、可笑しくもシリアスに笑えてしまうブラックさ。なんでこんな可笑しい。
主人公ラリーが映画の中で頼りにするのは、ユダヤ教の教えであり、自身の信仰への真面目さ、教えや信仰を推し量り助言などをするラビという存在。
なんでそもそも宗教があって、信仰があるかっていうと、やっぱり生きることって闇雲で一寸先は闇すぎて、わからないから、少しでも生きるヒントが欲しいからだと思う。
例えば、自分みたいな特になんの信仰もしてないのにいざって時に神様お願い!とか祈っちゃうような、神社もお寺も何を祀ってるかもわからないでお祈りしちゃうような無関係にも生きてる人間にはさ、もし何か行動をした時にその行動が正しいかなんてわからない、自身で信じるしかないわけだよね、すがるものを自分で見つけなきゃいけなくて、そのすがった先の行動の正解かどうかも自分で見極めなきゃいけない。これって考えてみたらすごい辛いなぁって思うわけ。
でも、信仰があれば違う。行動の指針が示されてるはずだし、信じるだけの尺度が与えられる。これが生きるヒント、生きやすさに繋がる。だから、信仰を持てるって幸せなことだと思う。どんな宗教であろうと救われてるなら、生きやすいならそれでいいよね。
ここらへんは、伊坂幸太郎の「砂漠」
ならの受け売りな宗教観。
だけどさ、信じるものは救われるの根拠って結局なんなんだろ?信仰を信じられるだけの自分の判断はどこからくるのか?信じるものは救われる。そうやって言い切れることがどれだけ幸せか。信じてないものは救われないんじゃない。
冒頭の寓話にある、悪霊と信じて男性を刺してしまうが悪霊を追い払ったと豪語する妻、妻が殺人を犯してしまったと嘆き、男性を悪霊とは信じていない夫。正しいのはどちらか、悪霊かどうかなんてその人の価値観の尺度でしか測れない。
「シリアスマン」は、信仰を馬鹿にしてるじゃないし、信じるものが救われるかどうかも信じないものが救われないかもどうかも、実のところ全然わからないよね、もうわけわかんないよね。って突きつけてくる。
なんで、身に染みて思うわけです。闇雲に生きることが幸せなのかも不幸なのかも、なおさらわっかんないなぁ、世知辛いなぁ。生きにくいなぁ。って。
そもそも不条理な世界で不条理なことばっか。ラストシーン、希望がないことがむしろ希望にすら思えて来る。
ずーんと明日の自分を考えさせられそうなんだけど、生きるとか大きくでないでね、今のいま、明日映画なに見よ〜とか、考えてる瞬間、ほんと幸せだなぁとか思えてくる。闇雲に生きてるならなおさら、笑えないのに笑ってられる可笑しさ、ブラックさを楽しみたい映画でした。
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