2011年12月30日金曜日

ポジティブな強さと君とひととき

出会いとは本当に突然。偶然時間が合ったからというだけの理由で飛び込んだ渋谷シネマヴェーラにて特集「映画史上の名作」からエルンスト・ルビッチ監督の「君とひととき」を観てきました。

映画館で白黒映画を観るのは、かなり久し振り。午前十時の映画祭で観た「シベールの日曜日」…いや「ハスラー」以来かな。その日はすでに映画二本のはしごした後だったし、白黒映画で1932年の映画だし、全然知らない古い映画なので、よもや寝てはしまいだろうかと不安だったんですけど、全くの杞憂でした。

君とひととき

あらすじ:パリっ子の粋なお医者さんアンドレ・ベルティエは美しい奥さんコレットをもちろん愛している。そして至極仲睦まじく円満に暮らしているのである。ところがある日アンドレはタクシーの中で美しい夫人と偶然知り合いになった。その夫人と言うのは彼の愛妻コレットの親友ミッチであることが判った。そんな愛妻の親友ミッチから積極的な誘惑をされてしまい…?一方で、アンドレの親友アドルフは、ベルティエをずっと想っていて…?

ルビッチの代表作と言われる「結婚哲学」をトーキー映画としてリメイクしたものがこの「君とひととき」という映画だそうだ。名前だけはなんとなく知っていたけれど、全然作品を見たことがなかったルビッチ。今年は、クロード・シャブロルという肌に合う監督に出会えたことの衝撃をずっと忘れられなかったわけだが、また肌に合う監督さんに出会ってしまった。

物語は、単純にして実にお馬鹿なお話でした。けれど、大好きなウディアレンで親しみのある画面に向かってしゃべり始める語り口、観客に対するちょっとした目の配らせ方、セリフの気持ちのいい掛け合いや皮肉の上手さ、奥行きのあるような味わい。実を言うと作品によっては苦手なミュージカル映画なんだけど、歌になったらついついにやにやしちゃうくらいおんなじフレーズを何度も繰り返すところとかも最高に楽しくて可笑しかった。

やはり古い映画だから、今に比べたら色々制約があって粗があるんだろうけど、粗なんてびっくりするほど振り返ってみてもわからないくらいに引き込まれてしまってました。浮気の誘惑に駆られるアンドレと一緒になってもがきあえいでしまう始末です。妻のベルティエはどこまでも可愛く愛おしいし、誘惑してくるミッチの小悪魔っぷりたらもうないし、こうアンドレに感情移入させられるというか一緒になってピンチになってしまっている感、役者たちの素晴らしさに加えて、ルビッチの手腕なんだろうなって思うと艶笑喜劇の神様と言われるだけの所以を感じ取れたような気がしました。

「君とひととき」の最後は、実に可笑しいハッピーエンド。悲惨?お馬鹿?シニカル?な物語で、これからの展開どうなるんだろうとか思っていた最後の最後、本当にしてやられたなーともう最高でした。

強い。この映画の終わりに象徴されるようなポジティブな強さは、凄く気持ちがいい。今年のベスト1に「ブルーバレンタイン」を挙げてしまったせいか、まぁ「ブルーバレンタイン」は前向きな終わり方だったと思ってるんですけども…やっぱりポジティブに強くはなれない映画だったとは思うので、今年の締めくくりに「君とひととき」を観れたことはとても価値があったなーと思えてます。いやー。

来年の三月にDVD化されるみたいだから、絶対買うしかない!
あと来年は、この映画を観て肌に合うと思えたルビッチ監督の作品を色々観るようにしたい。勝手に自分で特集組むぞ!と意気込んで…皆さん、よいお年を

2011年12月28日水曜日

一瞬であるということ。永遠の信じられなさ。

純愛や青春映画を見たときのほろ苦さにどう立ち向かっていけばいいのか分からないなぁと思う。というか、死が絡まる純愛映画ほど、ましてわからないのである。たしかに大事な人が死んでしまうのは悲しい。


永遠の僕たち

交通事故によって両親を失い、臨死体験をした少年イーノック(ヘンリー・ホッパー)のただ一人の友人は、彼だけにしか見えない死の世界から来た青年ヒロシ(加瀬亮)だけであった。他人の葬式に参列するのが日常的なイーノックは、ある日、病によって余命いくばくもない少女アナベル(ミア・ワシコウスカ)と出会う

イーノックとアナベルの青春、青い若さと死が描かれるわけだが、「死」が日常の中にというより、二人の中に当たり前に存在しているのがこの映画の怖い所だった。いわゆる純愛映画だと死が受け入れがたいものでしかなくて、それを乗り越えていくというような映画も多いわけだけど。その点は、「永遠の僕たち」は特殊な純愛に位置づけられる気がする。

「永遠と信じられる、信じたい一瞬」をどう描くかみたいなのが、俺が映画を見ちゃうときに恋愛が絡んできたと時に考えさせられてしまう所であったりするのだけど、この映画でもラストシーンはまさしくその瞬間を思わさせてくれるものである。ただそのことで、ちょっと深読みしてしまいたくなったので、恋愛脳の独り言を書いてみようと思う。

「永遠の僕たち」というタイトルからも「永遠」な二人を意識してしまう節があるのだけど、原題は「Restless」。意味で言うと、落ち着かないとかじっとしていられない、不安な…というものである。邦題で浅はかにも意識させられてしまう永遠の二文字はどこにもない。どうして、Restlessというタイトルなのか。

最初に怖い所として、「死」が日常にあると言ったが、その点がひっかかってくる。つまり、主人公のイーノックは臨死体験をしたせいで唯一の友達として幽霊(ヒロシ)が描かれ、またアナベルの方も余命いくばくもないという死があり、それを受け入れる形で二人の愛が育まれていくことになる。死を体験しているから死と一緒に彼女を受け入れることができる主人公の強さと少しも死を恐れてはいない彼女の強さは、あまりにも強靭すぎるとしかいいようがない。

例えば、彼女はダーウィンを愛好しているというお話が出てくるが、ダーウィンを信じているということは、宗教的なすがる存在が一切ないということでもあるし、何故彼女が死に対してそこまで強くいられるのか不思議で仕方がない。

「死」とはひとつの見方でいえば、解放であり、永遠になってしまうものである。忘れるという選択ができないのであれば、忘れられなずにずーと背負って行かないければならなかったりする。そういうイメージがある。

その象徴的な存在が幽霊のヒロシだ。日本兵で最愛の人を残してしまったという愛の儚さが終盤描かれ、イーノックのアナベル喪失と並べられて描かれもするが、彼という存在がまさしく永遠的な存在なのである。死を恐れていない存在、アナベルも同じく死を恐れていない存在。

だから、まるでイーノックとアナベルは、幽霊で死んでしまってるかのような、永遠的な存在に思えてしまってくる。つまり「永遠と信じられる、信じたい一瞬」が当たり前になってくる。やっばり好きな人とはずっと一緒に居たいし、永遠と思える一瞬のために生きてるというか、その瞬間を信じてすがってたりするんだけど、永遠がどうたらとかすがったりとかしてるということがないんだよ。幽霊のヒロシの存在がその点をすごく曖昧にしている感じがして、二人はもう永遠に愛を分かち合えているように思えるんだよね。

そんな二人にも死という別れが訪れる。たしかに永遠でないという事実・彼女の死の現実に、イーノックは自棄になってしまったりするのもあるんだけど、これは彼女を失うことへの恐怖。これは純愛映画のいつもと同じようなベタなお話、失って初めて彼女との永遠と信じられる一瞬を手に入れてたんだと気づくという。

でもね、アナベルの死を迎えてイーノックが最後笑顔を見せる瞬間、

永遠でしかなかった相手を失えた喜び

になっていたように思えたんだよ。

もうなに言ってるか、上手く伝わるかわからない文章で申し訳ないんだけど、普通なら彼女が永遠的な存在ではなかった事実に触れ、けれど失って永遠と信じられる一瞬を手に入れていたんだという愛にすがって生きていけるというようなお話になってしまったりするのを、永遠と信じられなくなった事実をくれたことへの喜び・愛の見出してるように思うんだよね。

幽霊ヒロシの最愛の人へと宛てた手紙、彼の中で彼女は永遠の想い人として生き続け、愛がそこにはある。
同じように、アナベルを失ったノーイックの中でもアナベルが生き続けていく。これは並べられて描かれるように思うのだが、先の俺の解釈にしたら同義にも近いけど、対比とも取れるようになる。

幽霊ヒロシの最愛の人へと宛てた手紙、彼の中で彼女は永遠の想い人として生き続け、永遠と信じられた一瞬に、愛を見いだせる。一方で、アナベルを失ったイーノックは、永遠と信じられた時間の中から永遠の信じられなさ、一瞬が一瞬でしかないことに愛を見出いだせた。

永遠はない。けれど、積み重ねた一瞬が永遠と信じられるのではなくて、一瞬でしかないから、愛が見いだせた。

タイトルの話に戻れば、不安でいられること、じっとしていられないこと、落ち着いていられないこと、つまり「Restless」その一瞬一瞬が永遠でないから、一瞬でしかないから…。そんなことを改めて考えてみたら、永遠と信じたい一瞬を求めてる、すがっていたい人間としては、彼らが到達したその場所、イーノックの最後の笑顔に涙するしかないんだよね。

もうなにが言いたいのかよくわからなくなっちゃったけど、青春・純愛映画が死を絡むことでただ永遠の一瞬を手に入れたと描きがちで、だから死が絡む映画って嫌いなんだけど、ここまで死について深読みさせてくれる映画なんだと思うとその一線からちゃんと踏み出していたと思えて嬉しかったんですね。

みずみずしい若い主演の二人の演技は素晴らしいかったし、洒落た衣装に、音楽までとっても良かったです。
NICOのThe Fairest Of The Seasons、BeatlesのTwo of us 頭から離れないや。

2011年12月21日水曜日

2011年BEST映画


元日の午前十時の映画祭「北北西に進路を取れ」から始まった今年の2011年映画生活もとうとう終わり。2011年、全然、ほんと全然映画は好きだったけどこんなに劇場で観賞もしなかった昔の自分が信じられないくらいに映画観ました!!
旧作も含めて劇場での観賞が141本!DVDやテレビでの映画観賞も含めたら合計で341本!(計算間違えてたので訂正)

限りなく毎日に近い本数見てるということに…そんな1年になりました。

2011年劇場公開映画だと、劇場と自宅鑑賞あわせてどのくらい見てるのかな、ちょっとわかんない。調べるの面倒なので調べませんでした、ごめんなさい。というわけで

劇場鑑賞作品のみの中からベスト10です!


第1位…『ブルーバレンタイン』〈デレク・シアンフランス〉

第2位…『引き裂かれた女』〈クロード・シャブロル〉

第3位…『人生万歳!』〈ウディ・アレン〉

第4位…『シリアスマン』〈ジョエル&イーサン・コーエン〉

第5位…『ソーシャルネットワーク』〈デヴィッド・フィンチャー〉

第6位…『ウィンターズ・ボーン』〈デブラ・グラニク〉

第7位…『ステイフレンズ』〈ウィル・グラック〉

第8位…『ハンナ』〈ジョー・ライト〉

第9位…『スーパー!』〈ジェームズ・ガン〉

第10位…『ラブ・アゲイン』〈グレン・フィカーラ&ジョン・レクア〉



コメント
「ブルーバレンタイン」…気持ち悪いくらい映画館でボロ泣きしました。生々しいすぎるほどの実在感、二人の演技があまりにも素晴らしい。昔から恋愛についての映画とか、倦怠期夫婦もの、どうして愛だったはずのこの関係は変質してしまうのかもの(宇多丸さん曰く)は、大好物なのもあって、客観的に立てない、当事者目線で感情移入しちゃうこの作品はマゾのマゾもいいところなんだけど、完璧にドツボにはまってしまったといいますか。泣泣もうなにも言えない。

「引き裂かれた女」…この作品で初めてクロード・シャブロルと出会いました。こんなにも肌に合う監督さんがまだいたのかと衝撃的な出会いでした。引き裂かれた女自体は、いやらしい寝取られものですね、画面全体に漂う歪さ、エロさ、凄まじい。ユーロスペースで特集にも何度か足を運び、他にも作品を結構観ました。引き裂かれた女より面白いシャブロルの代表作も観ましたが、あえて2011年に日本公開の「引き裂かれた女」をですね。一年シャブちゅうになった代表作として挙げたい。趣向がモロバレてくるあああぁ

「人生万歳!」…大好きな大大大大好きなウディ・アレン監督のこれまた傑作です。またドMなってうるさい。実はこの作品は去年の暮れの公開なので実質2010年の作品になってしまうんだけど、観たのが今年だからしょうがないのでランクインですね。ウディ・アレンは肌に合いすぎて異常です。皮肉といい、やじっぷりもたまらないし、この映画のハッピーエンド感もとにかく素晴らしい、ほんとに人生万歳!!!!!

「シリアスマン」…コーエン兄弟のほんっとに憎ったらしい傑作でした。らしいというか、コーエン兄弟じゃなきゃこんな映画撮れない絶対にっていう好きに作れられちゃった感がはんぱないんだけど、不条理を通り越した不条理さ、ブラックさをユーモアに描けるのだからすごい。好きなんです、コーエン兄弟。今年はトゥルー・グリッドも公開されてるのでコーエン兄弟を堪能できたわけだけど、この二つなら断然「シリアスマン」でした。

「ソーシャルネットワーク」…やってくれました。この大傑作が第5位なんて信じられません、どうかしてるんですかってくらい今年度の大傑作の1つ。共感しにくい天才な主人公に、ソーシャルネットワークというわからない人にはわかりにくい題材で万人うけしなそうではあるんですけどもね。ラストシーンのf5連打には、もう心にグサグサ、いや、グッと!!グッと!来ました。もうあのラストシーンが私の全てです。

「ウィンターズ・ボーン」…こんな貧乏で骨まで染み入る映画もなかなかないです。感動とか感傷に浸るとか重たいとか、もうそういうの通り越して心にズーンって来ました。主演のジェニファー・ローレンスには今年の新人女優の演技賞を挙げたいです。素晴らしい。こういう映画がアメリカでまだ作られるんだなってことがまず衝撃だし、舞台にしてもアメリカの知らない一面を見たと思える。世界は広い。

「ステイフレンズ」…肌に合うウディ・アレンのラブコメを除けば、今まで観てきた中で1番かも知れないってくらい面白かった!!セフレなんて憧れにもできない妄想の世界を成り立たせちゃう主演のジャスティン・ティンバーレイクとミラ・クニスの愛嬌ったらないです。素晴らしいキャスティング。多幸感たっぷりすぎ。

「ハンナ」…おお、珍しくアクション映画ですwといっても、殺戮マシーンでもあり世界を本でしか知らない最強少女の旅立ちのお話。まず好きな監督さんということが1つあります、ジョー・ライト。好きな女優ってわけでもないけど、透き通ったシアーシャ・ローナンがとても映えていまして、淡青がかった画面演出にケミカルブラザーズの音楽、ちょっとしたアクションの長回しとかなんかところどころツボにはまった。気に食わない気もするけど、色々言われてた終わりは全然嫌いじゃない。

「スーパー!」…衝撃すぎる。衝撃すぎる。こういう映画を待っていた?待っていたのかおれは?とね、ふつふつと煮えくり返るヒーロー精神というか、いや、振り切りすぎだろwっていう冷静さを保てなくなるくらいに感情移入してしまいそうになった。まぁなんにしてもボルティなのであるな。あのエレン・ペイジがあああああ。やばい。

「ラブ・アゲイン」…1番声を出して笑ったかもしれない映画で、スコット・ピルグリムとこの10位を争ったのであります。狂ってて、馬鹿げてて、愛くるしい映画ですよ、これは。役者陣のそれぞれの役柄の演じっぷりは見事で良かったなぁ。ライアン・ゴズリングなんてブルーバレンタインが嘘みたいにいい男でさ、エマ・ストーンはやばいくらい可愛いし、この二人の組み合わせ破壊力ありすぎるし、スティーブ・カレルもジュリアン・ムーアもね。よかったです、ケビン・ベーコンがちょっと全然あれな扱いで笑ったけどwこちらも多幸感たっぷりないい映画です。


次点でランクインしなかった作品
「ザ・ファイター」「スコット・ピルグリム」「ゴーストライター」「アジョシ」「宇宙人ポール」「猿の惑星 創世記」「ファンタスティックMrFOX」「ミッション8ミニッツ」「ドリームホーム」「冷たい熱帯魚」「X-MEN FG」「ピラニア3D」「リアル・スティール」

まだまだ面白かった作品があって、きりがないので割愛するけど、「塔の上のラプンツェル」「ブラック・スワン」「50/50」「指輪をはめたい」「ハードロマンチッカー」「コンテイジョン」「キッズ・オールライト」「人生、ここにあり!」「劇場版神聖かまってちゃん」あたりもかなり面白かったです。

まだ「MI4:ゴーストプロトコル」も観に行ってないし、話題の「サウダージ」も観に行けてないのでまだもう少し増えるかな。

来年はどのくらい映画見れるかなぁ。来年公開する映画は、さらにさらにかなり楽しみな作品が目白押しなのでほんとどうなることやら。年間劇場鑑賞100本は目標にしたい。

2011年12月16日金曜日

助けてください。闇雲に生きるのは不幸か幸せか。

さて、今年の映画のBestも考えたい頃合いになって参りまして、改めてブログで書いておきたいなぁと思う作品もしばしばあります。選り好みといいますか、勢いで書けるか書けないかみたいな所があるので、行き当たりばったりなブログです。

そんな思いから今年のBest5に食い込む傑作を一つ。また今年のBestについてはブログ書きます。


シリアスマン


あらすじ:物理学教授のラリーは、ある日を境に災難が続く。長年連れ添った妻ジュディスが離婚を望んだり、覚えのない商品代金の督促に追われたり。そこでユダヤ教の賢者に相談するも「歯痛の如く、時が経てば痛まない」と助言を受けるが、彼は明確な神の答えを求め続け……。


アメリカでは2009年の公開で、ずいぶん遅れて今年の二月にやっとこさ上映。作品は、ハートロッカーが選ばれた2009年のアカデミー賞の作品賞にノミネートされていた話題作でもあるにも関わらず不遇な扱い。シニカルなユダヤ人の慣習や宗教ネタが豊富なため、日本人に馴染みがないことがなによりの要因だと思うけど、いやぁ公開されただけ有難い有難い。

コーエン兄弟監督作品ということで、彼らのブラックさが苦手な人はこの作品も同様に苦手だと思う。アカデミー賞作品賞を取った「ノーカントリー」でダメだった人はこの作品も向かないかもしれません。まだ柔らかいブラックさだとは思うけど、根本的に肌に合わない場合もあるかと思うブラックさです。

かくいう自分は、コーエン兄弟のブラックさが、とても肌に合うので、好きな監督です。なので「シリアスマン」それはそれはコーエン兄弟らしさを堪能できました。

「シリアスマン」は、主人公のラリーにとにかく不幸が重なって救いもなくさらにさらに重なっていく…映画です。ただただ悲壮感に溢れる物語であるにもかかわらず、可笑しくもシリアスに笑えてしまうブラックさ。なんでこんな可笑しい。

主人公ラリーが映画の中で頼りにするのは、ユダヤ教の教えであり、自身の信仰への真面目さ、教えや信仰を推し量り助言などをするラビという存在。

なんでそもそも宗教があって、信仰があるかっていうと、やっぱり生きることって闇雲で一寸先は闇すぎて、わからないから、少しでも生きるヒントが欲しいからだと思う。

例えば、自分みたいな特になんの信仰もしてないのにいざって時に神様お願い!とか祈っちゃうような、神社もお寺も何を祀ってるかもわからないでお祈りしちゃうような無関係にも生きてる人間にはさ、もし何か行動をした時にその行動が正しいかなんてわからない、自身で信じるしかないわけだよね、すがるものを自分で見つけなきゃいけなくて、そのすがった先の行動の正解かどうかも自分で見極めなきゃいけない。これって考えてみたらすごい辛いなぁって思うわけ。

でも、信仰があれば違う。行動の指針が示されてるはずだし、信じるだけの尺度が与えられる。これが生きるヒント、生きやすさに繋がる。だから、信仰を持てるって幸せなことだと思う。どんな宗教であろうと救われてるなら、生きやすいならそれでいいよね。

ここらへんは、伊坂幸太郎の「砂漠」
ならの受け売りな宗教観。

だけどさ、信じるものは救われるの根拠って結局なんなんだろ?信仰を信じられるだけの自分の判断はどこからくるのか?信じるものは救われる。そうやって言い切れることがどれだけ幸せか。信じてないものは救われないんじゃない。

冒頭の寓話にある、悪霊と信じて男性を刺してしまうが悪霊を追い払ったと豪語する妻、妻が殺人を犯してしまったと嘆き、男性を悪霊とは信じていない夫。正しいのはどちらか、悪霊かどうかなんてその人の価値観の尺度でしか測れない。

「シリアスマン」は、信仰を馬鹿にしてるじゃないし、信じるものが救われるかどうかも信じないものが救われないかもどうかも、実のところ全然わからないよね、もうわけわかんないよね。って突きつけてくる。

なんで、身に染みて思うわけです。闇雲に生きることが幸せなのかも不幸なのかも、なおさらわっかんないなぁ、世知辛いなぁ。生きにくいなぁ。って。

そもそも不条理な世界で不条理なことばっか。ラストシーン、希望がないことがむしろ希望にすら思えて来る。

ずーんと明日の自分を考えさせられそうなんだけど、生きるとか大きくでないでね、今のいま、明日映画なに見よ〜とか、考えてる瞬間、ほんと幸せだなぁとか思えてくる。闇雲に生きてるならなおさら、笑えないのに笑ってられる可笑しさ、ブラックさを楽しみたい映画でした。

2011年12月11日日曜日

狂ってて、馬鹿げてて、愛くるしい (目指せフォトショボディ)

こんな狂ってて、馬鹿げてて、愛くるしい映画がいままであったろうか!!映画「ラブ•アゲイン」の原題は、「Crazy,Stupid,Love」。まさしく原題の通りだ。若干邦題が重たくなってしまっていて残念なのだが、気を取り直して重たく考えず見てもらいたい。



ラブ・アゲイン

あらすじ:真面目を絵に描いたような40代のキャル・ウィーバー(スティーブ・カレル)は理想的な人生を送っていた。安定した職に就き、マイホームを手に入れ、高校時代の恋人だった妻との間には可愛い子供たちがいる。だが妻のエミリー(ジュリアン・ムーア)が男をつくり、離婚を考えていると知ったときから、キャルの“申し分のない”人生は脆くも崩れ去る。おまけに昨今の“独身市場”では、キャルのようにウン十年もデートから遠ざかっている中年男はヤボなバツイチとして相手にもされない。そんなある日、ひとりの夜を地元のバーで寂しく過ごしていたキャルは、30代の遊び人ジェイコブ・パーマー(ライアン・ゴズリング)と知り合い、舎弟のようになっていく。ジェイコブは妻への未練を断ち切れないキャルにもう一花咲かせてやろうと考え、キャルを未知の世界へと誘う。男慣れした女性を紹介し、男らしい酒の飲み方を手ほどきし、GAPでは手に入らないハイファッションを見立ててやった。しかし、柄に合わない恋愛ゲームに興じているのはキャルとエミリーだけではなかった。13歳の息子のロビー(ジョナ・ボボ)は17歳のベビーシッターのジェシカ(アナリー・ティプトン)に夢中になり、そのジェシカはキャルにぞっこん。そんなモテ男に変身を遂げたキャルだったが、心までは簡単には変えられなかった。キャルの思いはいつも振り出しに戻ってしまうのだった……。(MovieWalkerより)

フィリップ、きみを愛してる!」のグレン・フィカーラとジョン・レクアが監督であること、また「塔の上のラプンツェル」のダン・フォーゲルマンが脚本ということでかなりの期待大で観にいきましたよ。

主人公キゃルがいわゆるダメ男というわけでは決してない。誠実に女遊びをするでもなく、高校の時に出合った女性エミリーと添い遂げて可愛い子供まで恵まれているのだから、あらすじにあるようにまさしく申し分のない人生を送ってきたのであるし、それはそれは誠実に生きてきた男なのだ。しかし、そんなキャルに突然の妻エミリーの浮気と離婚という現実が舞い込んでくる。

キャルのせいかどうかは、問題じゃない。彼は彼なりに誠実でありつづけたんだと思うし、そしてエミリーもキャルがそういう人間であったからこそキャルを選んだのである。一体全体ほつれはどこから来たのか。幸せで順風満帆な状態がずっと維持できるかどうかといわれると難しいのかもしれない、一時の気の迷い、より刺激的な方へ流れていった妻の行動を責めるにも責めれないというもの。キャル自身もっと努力を続けていなければならなかったと自責の念を覚えても仕方ないが、キャルを責めることはできないんじゃないかなぁ。

いくら可愛い子供たちがいようとも、エミリーが離婚を考えるという選択肢を取ったことへの共感はできなくもない。彼女自身仕事もあるし、子供の為に離婚できないなんて時代錯誤もいいとこなのだろうかな。彼女もまた素直な女性なので、見つめ直し時間が欲しいと考えて納得なのである。私が選んだキャルという男を信じていたいのにという気持ちが反面見て取れるようでもあって。実際わかったもんじゃないんだけど、人のいい二人なので人がいい素直で誠実だからこそそういう選択を考えてしまうんだと思える。(つもりにつもった積年のすれ違いというやつなんでしょうかなぁわからないけれどもね)

とは、まぁ彼らが離婚への考えをつかんでしまうまでの解釈になるわけだけど。ここから努力が足りていなかったんだという自責の念に駆られてもおかしくなかったキャルがまさかのまさか遊び人ジェイコブと出会い、舎弟になって男を磨いていくというのが物語の足がかりなストーリーになる。

ヤリチンにモテのテクニックをスポ根ばりに叩き込まれていくのが痛快だ。大の大人のスポーツシューズ、マジックテープのだささは万国共通だった笑

遊び人ジェイコブは、びっくりするほどお盛んというよりは、どこかで恋を諦めている男だ。夜な夜な女をとっかえひっかえ、自分を磨く事と女を口説く事を生きがいに生きている。そんな彼がキャルをモテ男として成長させることになる。それはキャルが、恋を誠実に諦めない男だからじゃないだろうか。妻エミリーだけを信じていたいと思えるキャルをジェイコブは羨ましかったんだろうかなって思う。ジェイコブ自身、恋を諦めている反面、諦めてしまっている自分をどこか冷めた目で見てしまう節があるように感じられるのだよね。

物語そんな彼らを含めて巻き込んで、様々な登場人物の恋やら愛やらの感情が錯綜する。邦題から思い込まされがちな古典的な愛を取り戻すお話のように思うのではなく、恋も愛も、馬鹿げてて狂っててそれでも愛くるしいから、信じたいよねっていうお話に思うのである。(信じられさの否定をここまでむちゃくちゃ物語を描き込まないといけないのかってのは、若干思う)

彼ら2人がどういう着地点に付くのかは、ぜひ映画を観て味わって貰いたい。
キャルは、恋を愛を信じ続けることができたのか、妻エミリーを取り戻す事はできたのか?
遊び人ジェイコブは、ずーっと遊び人にままなのか?キャルとであって、そしてどこか諦めていた恋を信じ始める事ができるようになるのか??

着地点への広げた風呂敷のたたみ込みっぷりは、凄まじくて、裏切られる展開、こうくるのか?!やられたと思うことしばしばで、大声出して笑った。

「ブルーバレンタイン」ではげ散らかしてたライアン・ゴズリングがうそみたいだけど、モテ男遊び人イケメンジェイコブを演じるライアン・ゴズリングのフォトショボディに、びっくり可愛いエマ・ストーンの組み合わせの破壊力は抜群で、そこにスティーブカレルの中年親父感だったりのジュリアンムーア奥さん感だったり2人も素晴らしく生き生きしていて見るものの心をぐっとつかんで離さない。

終盤にかけての展開は、胸が熱くも痛くてね。感動もしますしほろっと泣けさえする。

ただすごい憤りを感じた点が一つ…

公開劇場が少なすぎるだろ!ぼけ!神奈川で上映してるのがセンター北のワーナーだけってひどい。ひどすぎる。都内でもシネマート新宿だけ?配給さんがんばってよー。もっとたくさんの人に観て貰いたいです。

そしていたたまれないのが、、もっとおしゃれします。見た目から努力できるところはしていかないとなぁと、あー胸が痛い。筋トレも。。

2011年12月8日木曜日

ロマンチストの暴力

何故か暴力は嫌悪するものでもあると同時に、根源的な人間の魂の部分で感じ取るのか、はたまた憧れなのかは、わからないけれど、確信犯で男なら見て見ぬふりはできないほど惹かれてたりする。

ディビット•フィンチャー監督の「ファイト•クラブ」でも、スタンリーキューブリックの「時計じかけのオレンジ」でも、抗えない暴力への渇望を感じ取れるのだ。社会の抑圧からの解放を現実世界ではできない暴力を映画の中に私たちは見ているのかもしれない?


ハードロマンチッカー

あらすじ:グー(松田翔太)は山口県下関のディープタウンで生まれ育った高校中退のフリーター。街には暴力やセックス、クスリ、そして男と女のちんけだがディープな愛と憎しみが溢れている。グーはクールな眼差しを保ちながらも、必然的にそんな街の喧騒に巻き込まれ、また時には自ら跳梁し、ミライを探す日々を過ごしていた。そんな中、外国人や警察、ヤクザ、顔は広いが誰ともつるまないグーであったが、後輩の辰(永山絢斗)が起こした事件をきっかけに暴力の連鎖に巻き込まれていく……。


つまるところ、そうした暴力への憧れだけで暴力を楽しむことができるのかどうかは別問題だ。かっこつけるだけの映画でそのかっこつけだけを楽しめるのならそれでいいけど、それだけに落とし込めない面は強く感じたりする。愛のため、大事な人を守るため、みたいな大義で罷り通る暴力にしてもそうで、自己欲求な側面を強めた暴力は、誰のためでもない自分のためのものでありたいというような叫びが感じられる気がする。(自分の中でも?)

ここで見出せるのは、自分のための暴力探しであり、「ハードロマンチッカー」は自分のための暴力の映画だ。そこにある生々しさであったり、痛み、を掬い取った演出が見事。

主人公グーは、誰につくでもなく誰のためでもなく自分のために暴力を振るい続ける。性格的にいえば、わがままでマイペースでのらりくらいと我が道を行くタイプと言った表現がされる主人公グーは自分のための暴力の象徴だ。

この映画の中で、主人公グーが振るい続けてきた暴力はすべて自分に返ってくることになる。暴力の世界だから、と彼らのファンタジーな暴力社会として一つ見ることもできるが、自分のツケは自分で尻ぬぐいしなければならないのは、何を隠そう自分のためだったからだ。

どれだけボロボロにされても、因果応報、誰のせいでもなく自分のために傷つけて自分のために傷つけられる。バカだし、ハードというか、どMもいいところだが、それでも立ち続ける自分のためをぶれることがない姿に、心奪われるのである。誰かのために、誰かのせいにして暴力をしてしまいがちなのだと思う、じゃなきゃ暴力を振るうこともできないし、それが社会なんだろうか?とも思うわけだけど、それをロマンチストとかこつけて見て見ぬふりをし続けて抗い続けるロマンチストの暴力。

ラストシーンのくだりがつまり、そういうことなのである。誰かのために暴力をふるい、誰かのために死んで行くことが、愚かしいというのではなく、それでいいのかとロマンを見続けたい主人公グーの想いが如実に現れた場面。グッときた。ぜひ映画館で見て欲しい。

ロマンチストで居続けるより、誰かのせいにしたり誰かのためにいられることの方が楽だし幸せ。けど、暴力ってそれだけじゃダメなんだろう。それだけじゃない暴力に惹かれてることを、改めて痛感させられたのでした。

金子のノブちんは、また誰のためでもなく自分のため?という明確な描写はないが、誰にも指図されない男を演じてる。そんな彼は、いきなり退場させられる。これは皮肉か?

松田翔太狙いの女性客は、こんな映画の男のわがままに付き合えるかどうかで楽しめるかどうかが決まるかも。案外弱いのかねぇ、ハードなロマンチストに。男性は誰でもオススメ。

エハラマサヒロそっくりな、遠藤要の存在感がなかなか素晴らしく、柄本くんもまた素晴らしく、声や表情というった演技云々もまたしかりだけど、存在感で語れる演技は映画ほど大事ね。

まぁ後輩のお楽しみ中の所をお邪魔して、後輩が逃げ飛び出したのをいいことに、そのまま寝とっちゃうくらいの
、後輩の合コンにいた女の子をとっ捕まえて遊ぼうとして、そいつが売春少女だったから、無理やり一発ヤってバイバイくらいの、、極端な自己中さは、まがりなりにもロマンチックに眺めていなきゃだよね…?というそういうお話でした。

おしまい。


2011年12月6日火曜日

これからなにしよう?

普通に生きてると立ち止まるって難しくて、赤信号も気付かずに突っ走てたりするのかもしれない。冒頭のシーン、ランニング中の彼が信号で立ち止まる横を女性がすごい勢いで信号を無視したまま、突っ走ていく。癌という病気で人生を立ち止まり、そしてまた歩き始める映画。


50/50

あらすじ:27歳、いたって普通の冴えない男・アダム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は突然ガン告知を受ける。しかも5年生存率は50%という、まさかの余命宣告まで。その日から、悲しみに暮れて何かと世話を焼きたがる母親や、看病のプレッシャーからよそよそしくなる恋人などに悩まされるアダム。
気を紛らわすため、能天気で女好きの親友・カイル(セス・ローゲン)とガンをネタにしてナンパをしたり、新米セラピストのキャサリン(アナ・ケンドリック)とカウンセリングを受けたり。しかし病状は悪化の一途を辿り…。

まず語るべきは、キャスティングでしょうかなー。

主人公の「インセプション」ではスーツの似合うカッコいいアーサーを演じ、「500日のサマー」ではサマーという女の子に振り回され続ける愛を信じてるトム演じた ジョセフ•ゴードン=レヴィット!来年夏の公開を控える「ダークナイト•ライジング」でも刑事役での出演も決まってる、若手ながら実力のある俳優さん。甘いマスクで日本受けしそうな顔なので、きっと女性は気にいる人も多いそんな彼の誠実な演技はとても良かった。

主人公の親友を演じるセス•ローゲンは、いい意味でセス•ローゲンなうざさと優しさを兼ね備えた憎めない、ナイスガイだ。うざいけど、嬉しいってあるあるなめんどくさい感情を嫌でも感じさせてくれるほんと名演。

セラピストを演じるアナ•ケンドリックは、いや、いわゆるうさぎ顏だけど、等身大な演技が素晴らしく可愛い、ほんと可愛い。こんな彼女欲しいってくらい可愛い(エドガーライト監督の彼女さん!!)彼女が主人公の歩き直しの始まりを告げてくれる瞬間の希望の満ちっぷりは素晴らしいね。泣。

とまぁ、そんな彼らを観るだけでも価値があると思えるほんといいキャスティングというか好きな役者さんたち。

あまり観客は入っていなかったんだけど、カップルが何組か入ってました。映画の中でも恋愛は、闘病の中での負担が重くのしかかる難しいものとして扱われてて、苦しい描き方をされるため、こうカップルで来て2人の気持ちを思い計るような考えで見ちゃうと重たくなるかもしれないと注意は必要なんだけど、かといって重たい映画ってわけでもないから気負わずに大事な人と一緒に見て感動してもらえたら嬉しいなと思える作品。

主人公の闘病姿は、画面のフォーカスのぼけ、無闇な笑顔を物々しく映したり、嫌味な落ち着きの演技で深刻に描きすぎるでもないのに過酷さが伝わってくる。辛いなぁ。

異性とか関係なく、1人の人間として自分を見つめ直すことができるし、友情を考えさせられる。もし自分が彼の立場だったら、なんて思ってしまって共感できることがたくさんあった。

日々の生活で見て見ぬ振りして、気づけない大切なものを教えてくれるようないい映画です。

元々主演はマガヴォイくんだったらしいんだけど、いやぁ、ジョセフ•ゴードン=レヴィットで良かったよね。

もっとたくさんの人に見てもらいたいな。泣ける映画っていうかね、頬をつらーってくる。前向きになれた気がする。

ただにしても爪を噛む癖とかめっちゃ放置だったな笑 ラジオの仕事の達成とかも放置。そこは不満。


2011年12月3日土曜日

何のために絆創膏もってるの?転ぶためでしょ?

記憶喪失になって昔の恋愛の後悔もトラウマも全部全部忘れられたら、どれだけ幸せなんだろう?今の自分があるのは君のおかげとかどこぞのRADWIMPSが歌ってようがなんだろうが、なんだかんだ後悔を背負って生きてることはやっぱり辛いことに違いはない?


指輪をはめたい

あらすじ:スケートリンクで転んで気を失ってしまった製薬会社の営業マン、片山輝彦のカバンの中から出てきたのは見覚えのない婚約指輪だった…!恋人に関する記憶だけサッパリと無くなってしまった輝彦の前に、まるでタイプの違う3人の女性が現れ、それぞれが彼女だと名乗る。クールな才女智恵、明るくセクシーなめぐみ、家庭的な和歌子。指輪があるからには、彼女たちのうちの誰かを愛していたことは確かだ。僕の指輪を待っている大切な人にプロポーズしなくては!でも一体、誰に!?なぜ、愛する人の記憶だけ失ってしまったのか、果たして指輪は誰のためのものなのか? 見覚えのない指輪と見覚えのない恋人たちに翻弄されるうちに解き明かされる、輝彦が心の奥にしまおうとした想い。恋の記憶をめぐる結末には、意外な秘密が隠されていた・・。30歳を目前に控えた、情けなくも憎めない独身男子の、結婚相手と失くした記憶をめぐるラブファンタジー!

今年の二大ラブひねくれ邦画として「モテキ」とこの「指輪をはめたい」を並べたいと思うんだけど、昨今流行りのヘタレ男子と芯の強い女性の物語というだけで言い切れる物語ではないと思いたい。ヘタレ男子だから、こんな恋愛になっちゃうとかもう全然言い切れないと思ってしまう。恋の無根拠さだったり、いい加減さがどうにでも言い切れて受け入れられるようになってきてしまったんだと思うし、受け入れられるようになったというよりは、そう理解せざる負えなくなってきたんだというか。だからこそ、現代の男の子はどっかしらM的でもがかざるおえなくなってきちゃったというか。

恋や愛で綺麗に語られることが幻想になってしまったから、もう古臭い真実の愛みたいな言説をむしろ幻想じゃないんだと取り戻そうと必死にもがき始めたって感じなんだと思う。愛を信じてる俺、かくあるべき俺なんてものも、もうないとつきつけられて、それでもすがりたがってる。ひねくれ。

輝彦は、一過性の記憶喪失で恋愛のことだけすっぽり抜けてしまうというなんとも都合のいいお話なわけだけど、男心なんとも都合のいいお話なわけです。冒頭に書いた、過去の恋愛全部忘れられちゃったらいいねーというまるで憧れなお話がファンタジー的な演出ととてもマッチしていて、映画を見てると淡い感情に浸れるし、途中まではちゃんと幻想を取り戻せるような気がするけど、そこからガッと現実に輝彦と一緒に現実に引き戻される展開で物語は進む。

男なら誰しもが今まで思い馳せた夢想した恋に絡まるありとあらゆる感情を、終盤は、なんかこう男心つつきにつつかれて。。苦い。

幻想の中のふみちゃんは、とてもそれは可愛いのだけど、ネタバレになってしまうのであまり詳しい事はいえないけど現実に引き戻され立ち返ったところに現れた彼女は可愛く写そうという一切の気持ちが画面に現れてないくらいに可愛くない。

男の子にとって妄想の中の女の子が1番可愛いんだよね。

こうした男心を掬った物語を描いたのが女の監督さん(岩田ユキ監督)てのが面白いなって思う。あーつつかれた感情全部、見透かされてるんだなぁという。

主演の山田くんは、最近ましましてカメレオン俳優でいい演技。キャスティングはかなり良かったと思う。真木ようこが、さばさばとしたイメージと愛嬌をうまく結びつけたいいキャラであっけにとられるくらい良かったし、池脇千鶴子の素朴さも小西真奈美のツンデレ感もよかった。まぁスケートリンクの天使なふみちゃんが一番可愛いんだけどね。あのふみちゃんのスケートリンクの上でのあのしゃべり方は、夢の中で声をかけられてる感じがしたなぁ。

夢想の中に閉じこもっているところから、一歩踏み出したときにちゃんと現実に夢を見れるような、ちゃんとひねくれちゃうことももがいてることも真っ直ぐ肯定してくれるようないい映画。

なんのためにばんそうこうもってるの?転ぶためでしょ?

これは絶対男の子に観て欲しい作品。ちゃんと絆創膏もってる。