2011年12月8日木曜日

ロマンチストの暴力

何故か暴力は嫌悪するものでもあると同時に、根源的な人間の魂の部分で感じ取るのか、はたまた憧れなのかは、わからないけれど、確信犯で男なら見て見ぬふりはできないほど惹かれてたりする。

ディビット•フィンチャー監督の「ファイト•クラブ」でも、スタンリーキューブリックの「時計じかけのオレンジ」でも、抗えない暴力への渇望を感じ取れるのだ。社会の抑圧からの解放を現実世界ではできない暴力を映画の中に私たちは見ているのかもしれない?


ハードロマンチッカー

あらすじ:グー(松田翔太)は山口県下関のディープタウンで生まれ育った高校中退のフリーター。街には暴力やセックス、クスリ、そして男と女のちんけだがディープな愛と憎しみが溢れている。グーはクールな眼差しを保ちながらも、必然的にそんな街の喧騒に巻き込まれ、また時には自ら跳梁し、ミライを探す日々を過ごしていた。そんな中、外国人や警察、ヤクザ、顔は広いが誰ともつるまないグーであったが、後輩の辰(永山絢斗)が起こした事件をきっかけに暴力の連鎖に巻き込まれていく……。


つまるところ、そうした暴力への憧れだけで暴力を楽しむことができるのかどうかは別問題だ。かっこつけるだけの映画でそのかっこつけだけを楽しめるのならそれでいいけど、それだけに落とし込めない面は強く感じたりする。愛のため、大事な人を守るため、みたいな大義で罷り通る暴力にしてもそうで、自己欲求な側面を強めた暴力は、誰のためでもない自分のためのものでありたいというような叫びが感じられる気がする。(自分の中でも?)

ここで見出せるのは、自分のための暴力探しであり、「ハードロマンチッカー」は自分のための暴力の映画だ。そこにある生々しさであったり、痛み、を掬い取った演出が見事。

主人公グーは、誰につくでもなく誰のためでもなく自分のために暴力を振るい続ける。性格的にいえば、わがままでマイペースでのらりくらいと我が道を行くタイプと言った表現がされる主人公グーは自分のための暴力の象徴だ。

この映画の中で、主人公グーが振るい続けてきた暴力はすべて自分に返ってくることになる。暴力の世界だから、と彼らのファンタジーな暴力社会として一つ見ることもできるが、自分のツケは自分で尻ぬぐいしなければならないのは、何を隠そう自分のためだったからだ。

どれだけボロボロにされても、因果応報、誰のせいでもなく自分のために傷つけて自分のために傷つけられる。バカだし、ハードというか、どMもいいところだが、それでも立ち続ける自分のためをぶれることがない姿に、心奪われるのである。誰かのために、誰かのせいにして暴力をしてしまいがちなのだと思う、じゃなきゃ暴力を振るうこともできないし、それが社会なんだろうか?とも思うわけだけど、それをロマンチストとかこつけて見て見ぬふりをし続けて抗い続けるロマンチストの暴力。

ラストシーンのくだりがつまり、そういうことなのである。誰かのために暴力をふるい、誰かのために死んで行くことが、愚かしいというのではなく、それでいいのかとロマンを見続けたい主人公グーの想いが如実に現れた場面。グッときた。ぜひ映画館で見て欲しい。

ロマンチストで居続けるより、誰かのせいにしたり誰かのためにいられることの方が楽だし幸せ。けど、暴力ってそれだけじゃダメなんだろう。それだけじゃない暴力に惹かれてることを、改めて痛感させられたのでした。

金子のノブちんは、また誰のためでもなく自分のため?という明確な描写はないが、誰にも指図されない男を演じてる。そんな彼は、いきなり退場させられる。これは皮肉か?

松田翔太狙いの女性客は、こんな映画の男のわがままに付き合えるかどうかで楽しめるかどうかが決まるかも。案外弱いのかねぇ、ハードなロマンチストに。男性は誰でもオススメ。

エハラマサヒロそっくりな、遠藤要の存在感がなかなか素晴らしく、柄本くんもまた素晴らしく、声や表情というった演技云々もまたしかりだけど、存在感で語れる演技は映画ほど大事ね。

まぁ後輩のお楽しみ中の所をお邪魔して、後輩が逃げ飛び出したのをいいことに、そのまま寝とっちゃうくらいの
、後輩の合コンにいた女の子をとっ捕まえて遊ぼうとして、そいつが売春少女だったから、無理やり一発ヤってバイバイくらいの、、極端な自己中さは、まがりなりにもロマンチックに眺めていなきゃだよね…?というそういうお話でした。

おしまい。


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