2012年8月14日火曜日

残酷な青春のテーゼ/「桐島、部活やめるってよ」

「桐島、部活やめるってよ」

吉田大八監督(「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」「パーマネント野ばら」)

人によって高校時代にどんな過ごし方をしてきたかは、まるで違う。部活を熱心に取り組んで色恋沙汰もなく過ごした人、部活も熱心に色恋沙汰も充実していた人もいるだろうし、鬱屈した日々を送った人もいれば、ともう言い出したらきりがない。自分はどうだった?あなたの周りはどうだったろう?


「桐島」という学校一の美女と付き合っていて運動神経も抜群で周りのみんなから周知され帰宅部の友達を毎日待たせるくらいには、慕われている存在が部活をやめていなくなったという、それは何故か?という事件が物語の中心に添え、そこにゆっくり踏み込むように物語は冒頭、桐島が部活をやめた事を知る「金曜日」を過ごすという同じ時間軸を複数の登場人物の視点を交錯させながら織り成していく。その序盤、徹底して描かれるのが学校内におけるカテゴリーだ。

ある種の学内におけるカテゴリーがあることを、私たちはそれとなく理解している。「帰宅部系、ちょいと悪っぽくて人気者、悪っぽい女の子たちと仲よくて、中堅な女子にもなんだかんだ慕われてる」「特に取り立てるところもないけど、部活は熱心に取り組んでたり、地味に色恋してる中堅」「こいつらと話すとちょっと周りの目を気にしちゃうようなナードな部類」というようなものである。これはまんま「桐島」に出てくるカテゴリーを分けたものになる。

どのカテゴリーの人がどのカテゴリーの人間に対して、どういう感情を抱いているか、どういう扱いをしているかを同じ時間軸における視点の交錯を通してそれぞれに描き出すので関係が非常にわかりやすい(ある種ステレオ)、また、このカテゴリーは(動線)位置関係や高さにはっきりと描き出されているとも感じられる場面がある。帰宅部系の男子に恋心を寄せる部活熱心な吹奏楽部の女の子は、上から見つめている。そんな彼女を、ちょっとナードな映画部の男の子は、そんな彼女を見上げることになるし、帰宅部系男子とナードな映画部の彼らは、ドアでぶつかる程度の関係、まるで眼中にすらないのだ。ちょいと悪っぽい女子にナードな映画部の男子は、気持ち悪いよねと教室の橋から遠巻きで見られ、挙句に彼らは教室を逃げるようにでていく。

こうして、部活熱心な中堅女子として帰宅部系の彼に恋心を寄せつつも、、やはりどこか見下しているのであるし、
ナードな映画部が部活熱心な彼女を見上げるのも、彼女が彼らをどこか見下している。彼らもどこか彼女を見上げてしまっている。悪っぽい女子には、立ち向かうこともできないで逃げるしかないのだ。

このカテゴリーへの視線が台詞の中にも顕著に散りばめられる。曖昧な記憶でニュアンスで書くので精確ではないけど「部活ばっかりやってセックスもできないやつらと、セックスばっかりしているやつらがいて、あいつらはこっち側にはこれないんだ」「映画部?遊びなんでしょ?」


ここで改めて「桐島」が浮かび上がってくる。「桐島」をおさらいしよう。
①桐島は、バレー部のキャプテンだった。
②桐島は、成績も優秀だった。
③桐島の彼女は、校内一の人気者だった。
(さらに悪っぽい帰宅部系に毎日部活が終わるのも待たせるくらいには慕われてる)


そんなカテゴリー的には、最強!な彼が「部活をやめた」っていうんだから、何があったんだってなるよね。
そしてその桐島の存在にマクガフィン的な役割を与え、物語は、そのカテゴリーの境界で揺らぐ。

序盤で徹底的に描いたカテゴリーが カテゴリーの境界=葛藤=青春 の図式が中盤で加速していく。

いくらカテゴリーといったってこの境界、どこかで超えれて、寄り添えあえない事がないとは言えないはず。

桐島という圧倒的な存在のせいでベンチに座り続けた男の子が、彼の代わりになろうと努力をし続けてる。
悪っぽい女の子たちと仲良くしていても、部活を熱心に考えている。
ナードな映画部の前田くんに対して、話すのが恥ずかしいだなんて思わないで話しかけてくれる。
見下していたはずのナードな映画部に溜まった気持を吐露しちゃうようなことだってある。
帰宅部系男子だけど「別にセックスができないような部活熱心なやつらだっていいと思うんだ」なんていってくれる。
片想いしてた中堅女子は、部活に真っ直ぐ向き合えるようになる。

ただ青春は残酷なのだ。学校内のカテゴリーの境界は、いつだってシビアに存在する。

部活熱心な中堅女子は、好きな彼が別の女の子と待ち合わせ場所にいってわざと遭遇してキスシーンを見させられて(それを見下ろし)気持ちに踏ん切りをつけることなる。
「桐島」の彼女のはずの女の子は、彼とはまるで連絡も取れず、結局彼がどうしてやめたのかも分からない。
「桐島」の代わりになろうと努力をどれだけしたって届きそうにもない。
ナードな映画部の前田くんが恋心を寄せた優しい女の子も、やっぱり帰宅部系のちゃんちゃらっぽい男の子と付き合ってる。

ここで個人的に楽しいのが、誰かを突出させることなく均一に青春を描こうとしているわりには、映画部のナードな部類の彼らの描き方はもうひとつ物語がある。「先生に押し付けられる映画のテーマ」vs「自分たちで撮りたい映画のテーマ」。そこにやはり監督の映画愛と、この映画のテーマをみてしまう。

彼らが自分らしく自分たちが撮りたい映画のテーマを反対を押し切って撮り続け、屋上で一堂に会するシーンでは、誰もが誰を見下すことも見下ろすこともなく平等にゾンビに食われるのだ。(ナードな彼らの小さな反抗でもあり、自分をつらぬくという訴えでもある)誰しもが平等で誰しもがカテゴリーのない瞬間が描かれるのだ、それはまるでフィクションであるが、区別が差別として理解されてそれがダメだと一言で終わらせるのではなく、区別が区別として存在することによってそうした瞬間だって生まれるんである。


最後の最後になっても「桐島」はどこにいったのかわからないのであって、桐島の彼女は「桐島」が自分で選んだ道を認めることしかできない、漠然と帰宅部系に属していた塾通いの男の子は野球部に戻ろうと気持ちが揺らぐのを誰も止められはしない、映画部のナードな部類は、それでもただ好きな映画を撮り続けることしかできないのである。

残酷な境界を目の当たりにしたって「自分らしく」「相手らしさ」を徹底的に肯定する。
この映画の真髄をそこに観た。残酷だ、青春は残酷かも知れない、思い通りにはいかない、でも君が君らしくあることがきっとそれで青春なのだ。目の前にした相手がどんな人間なのかわからない、嫌な人かも知れない、好きな人の彼氏かも知れない、それでもその人がその人であるということは否定ができないんだ。

こんな痛切なメッセージを描かれて泣けないわけがない。残酷青春映画の傑作。



映画部のナードな前田くん(神木隆之介)の寝取られ回収が橋本愛のゾンビ食いちぎり!橋本愛の鎖骨がああ!なんて最高でしたよ。ただ1つ、ゾンビで一堂に会する終わり、あのカメラのレンズを拾って持って行こうとして戻ってきた件は、全然よくわからなかった!なんで拾ってもっていこうとしちゃったんだ?

ちょっと自分の話すると、自分は高校私服だったし、単位制だったしクラスもないに等しかったから、全然この高校生の青春らしい青春とは文脈が離れすぎて感情移入もお前は俺か!もできなかったんだけどね。それでもまた別の所で感慨深く繋がるように思えて憧れさえ覚えたのでした。

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